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Copyright © 2019 Peacetopia~韓国での暮らしを中心にあれこれと~ 

【書籍】『人間失格』〜人生で一番長い間読んできた文学〜

最終更新: 2019年9月18日

*ここでは今まで読んだ本の感想を書いています。主に自分の記録用っす。


初めて手に取って読んだのは確か13歳か14歳だったと思う。


昭和の時代に書かれた有名な文学作品だということは知っていた。

そして、著者が東北出身の太宰治という名の人物で、最期は玉川上水で女性と入水自殺を図ったということも知っていた。


「心の弱いミステリアスな道化師」


これが太宰治の本性だと思っていた。

どこからそんな考えが浮かんだのかは、今はもう覚えていない。

きっと、テレビかなんかの影響だと思います。

それか、人間失格の主人公のせいかも知れない。


私は今までに、この書籍(同じ新潮文庫)を二度購入し、一冊は机から手の届く範囲に置いていた本棚に、もう一冊はいつでも気が向いたら読めるようにとベットの枕元に置いていた。


ただ、だからといって何度も何度もこの本を読んだかというと、そんなことはない。


その頃の私にとっては、使われている日本語が難しく理解するのが容易ではなかった。

また、知識(特に語彙力)も人生経験も少なかったため、書かれている内容をきちんと掴みきれていなかったと思う。


まあ、もともと読書家ではない私が、自分に対して格好付けるために読んだだけなので、当たり前だろう。


登場人物の名前も、私の頭をこんがらがらせた。

堀木やヒラメはいい。分かりやすい。覚えやすい。

しかし、ツネ子、シヅ子、シゲ子、ヨシ子は文字が似通っていて読み違えてしまう。

特にツ、ヅ、シはパッと見、すごく似ているからややこしい。

太宰よ、何故に片仮名にしたんだ。せめて漢字を用いてくれれば読みやすかったのに。



それでも、何度も何度もじっくり読み返し、文体にも慣れた頃には、この小説は人間として産まれたからこそ味わう惨苦、他人と触れ合うが為に生じる孤独感、恐怖の対象でしかない人間から愛を求めてしまう虚しさ、そして、これら人間の内側に潜む悪魔のような感情に打ち勝つことのできない人間の弱さを、ある男の人生を通して(実は)ユーモラス描いている作品なのだと思うようになった。




この小説は、癈人同様に生きる一人の男(葉蔵)の人生が「はしがき」「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」「あとがき」に分かれて描かれている。


<あらすじ>


幼少期から人間に怯え、自分を出すことができなかった葉蔵は、「人間に対する最後の求愛」として道化になることを決め、本当の姿を欺きながら生きる。


中学に入り故郷を離れると、道化として振舞うことにも慣れ、クラスでも一目置かれる存在になるものの、人間恐怖症は相変わらず激しく葉蔵を襲う。そんな中、クラスでも目立たず一切警戒していなかった竹一という生徒に、自身の道化の姿がバレそうになり恐怖する。(この竹一は葉蔵に対して「女に惚れられる」「偉い絵描きになる」という予言をするが、前者は当たり、後者は外れることになる)


東京の高等学校に進学してからは悪友の堀木に出会い、酒と煙草と淫売婦に溺れ、共産主義の秘密会合にも出入りするようになる。その後、父親の関係でそれまで住んでいた家を引っ越すことになり、お金にも困りだす。月々の送金も2、3日で使い果たし、自分には「ひとりで生活する能力がない」という現実を突きつけられる。そして、恐怖から逃れるために、年上の有夫の女性と情死事件を起こす。


ここから葉蔵の人生は一変し、癈人の道を辿っていく。


遂には取り返しのつかない様々な罪を犯した自分自身に対して「人間失格」の烙印を押す。


27歳になった葉蔵に残った、たった一つ、真理と思われるものとは。


 今の自分には、幸福も不幸もありません。

 ただ、一さいは過ぎて行きます。


最初は意味もよく分からず、ただ読んでいただけだったが、


 恥の多い生涯を送ってきました。


という「第一の手記」での有名な語り出しは、私の心を掴むのには十分だった。


学校にも行かず家に篭りっきりで、どうやって生きたらいいのか全く分からなかったあの頃の私は、この小説を読むことで、自分と同じ苦衷を知っている人が世界の何処かにはいるんだと感じて安堵したし、自分も葉蔵と同じように癈人であると思うと、おかしな話ではあるが、いつの間にか刻まれた心の傷が癒されていく気がした。


そう、これは特別な人間の話ではない、とても身近な話なんだ。


139ページに収められたこの小説の中で、当時特に気になった文章を下に書き出してみた。

ある文章には共感を覚え、ある文章には「人とは何か」「何故苦しみを背負いながら生きるのか」を考えさせられた。




 つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、ということになりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食い違っているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけたことさえあります。(P.11~12)



 人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分一人の懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されていきました。(P.14~15)



 ああ、われに冷き意思を与え給え。われに、「人間」の本質を知らしめ給え。(P.87)



 自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。(P.88)



 不幸。この世には、さまざまな不幸の人が、いや、不幸な人ばかり、と言っても過言ではないでしょうが、しかし、その人たちの不幸は、所謂世間に対して堂々と抗議が出来、また「世間」もその人たちの抗議を容易に理解し同情します。しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無いし、また口ごもりながら一言でも抗議めいたことを言いかけると、ヒラメならずとも世間の人たち全部、よくもまあそんな口がきけたものだとあきれ返るに違いないし、自分はいったい俗にいう「わがままもの」なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでも自らどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策など無いのです。(P.124)




昔購入した二冊のうちの一冊は、私とともに海外を回った。

平成11年に刷られたこの小説を持って、20年以上経った今もこうして生きているとは、当時の自分には想像もできなかっただろう。

そして、こんなにも陽気に自由に生きているなんて、過去に戻って伝えたとしても信じてくれないだろう。



『人間失格』の葉蔵は、その後どんな人生を送ったのだろうか。

ゆっくりと本を机に置き、息を吐きながら色々と想像してみる。


人の一生は決して長いとは思わないが、癈人として一生を過ごすには長過ぎると思う。


「あとがき」では、葉蔵からバアのマダムに三冊のノートと写真が送られてから10年後のことが描かれている。そこでは、葉蔵の消息は不明だ。彼がどこでどうしているのか、誰も知らない。


葉蔵のことだから、また過ちを犯したのか、それとも、空襲に巻き込まれて命を落としたのか、または結核や肝硬変の病で一人亡くなっていったのか……


でも、それでは面白みがなさ過ぎると思ってしまう。

あまりにもシンプル過ぎる。

葉蔵の人生の切なさは、それでも生きるところにあるのでは、と私は思う。

彼が不幸だと感じたのは、人の愛を通して(少なくともシゲ子やヨシ子との生活を通して)幸福を感じたからだし、どんな時も心の底の底では幸福を求め、その可能性を捨てきれなかったからに過ぎない。


自分でも意外だが、私の頭の中には、穏やかな落ち着いた笑顔で子どもと戯れる40歳の葉蔵の姿が浮かんでいる。サザエさんの磯野家よりも少し小さい平屋の一軒家。その庭で、5歳くらいの女の子の背中に手を置き、優しく話し掛けている。

そこでは風がゆっくりと流れ、木々の葉が静かにざわめきながら緑色の光を放っている。


20年前の自分なら、そんな光景を思い浮かべることはなかっただろう。


ということは、10年後に読んだらまた違う葉蔵の未来を想像するのかも知れない。

それもまた『人間失格』を読む楽しみなのだろう。








作者: 昌

​韓国に来て早10年以上。いつかは仏様を描きながら世界中を旅するのが夢